2021.08.30

ニコ・チェレジーニ:アプリリアの初勝利と新時代の幕開け

ニコ・チェレジーニは元イタリア人ライダーであり、ジャーナリストでもあり、常にモーターサイクルの安全性を重視してきました。

イタリアのテレビではおなじみの顔で、レースのコメンテーターやバイクのテストライダーとして、彼はライダーの保護と道路での安全性についての意識を高めるための独自のキャンペーンを率いています。

ニコの有名なモットーは、「ヘルメットをしっかりかぶり、昼間でもライトを点灯し、常に安全運転を心がけましょう!」というもの。

ミサノ・サーキットは、世界選手権の歴史に残るような多くの出来事がありました。

どのサーキットもそうですが、歴史の中では良いことも悪いこともあります。

私(ニコ・チェレジーニ)にとってミサノでの印象的なシーンは、1972年に作られたオリジナル・コースの最終コーナー(ブルタペラ)でのバトルです(「ブルタペラ」は土地を手放した農夫のニックネームです)。

このコーナーは、狭い左コーナーで出口はS字となっています。このコーナーは、最後まで全力で攻めることができるコーナーですが、ラインが限られており、危険なコーナーでもあります。

70年代後半の250ccレースでの、ウォルター・ビラスとジョニー・チェコットの接戦91年の250ccレースでのルカ・カダローラとヘルムート・ブラドルのバトルを覚えています。

1000分の9秒差で優勝したルカは、危険ともいえるバトルについて「よく覚えていないが、結果として激しい接触があった。僕は諦めなかっただけだ」と回答していました。

当時はこの行き過ぎたバトルについて制裁もなく、FIMも見逃していました。ライダーたちが我を忘れ、今の基準では危険とされる走行が許されていた時代でもありました。

ただ、ミサノでの最も記憶に残るエピソードは、アプリリアが世界チャンピオンを獲得した1987年です。

アプリリアが世界選手権に上陸

それは8月下旬のことでした。

とても暑く、ロリス・レジアーニの周りには奇妙な空気が漂っていました。

2年前からAF1 250で参戦していた小さなチームは、すぐに故障してしまうバイクによって、しばしばトラブルが発生し、愚かさと不運が重なって、人々は夢を見ると同時に、祈るようなシーズンを過ごしていました。

アプリリアは、すでに革新的でカラフルなデザインのバイクを製造するメーカーとして、トライアルやモトクロスのレースで勝利を収めていました。

そして、フィレンツェのミケーレ・ベリーニが、イヴァノ・ベッジオに提案した外部チームによって、世界選手権に登場したのです。

フォルリを拠点とするCR1レーシング・チームは、ライダーのレジアーニと、ロータックス・エンジンを搭載したAF1 250で参戦したのです。

ロータリー・ディスク・バルブを持つタンデム・ツイン・エンジンは、新しい技術ではないものの、パワーの出方が鋭く、リード・バルブを持つライバル車両よりもタフでした。

85年のデビュー以降、すぐに2度の表彰台を獲得したものの、86年は交通事故によりライダーが骨盤を複数回骨折、足首にもダメージが残ったため、思うような結果が残せませんでした。

1987年のシーズンは、最初の3戦で3回のリタイヤという不運なスタートを切りましたが、モンツァのネイションズでのポールポジションでは、パワーとスピードを証明し、続いて6月のザルツブルグとリエカで2位を獲得しました。

その後、いくつかのミスはあったものの、レジアーニはドニントンでタイトすぎるスーツにも関わらず2位、アンデルストープではピストンの焼き付きにもかかわらず3位、ブルノではリタイアとなりました。

そして、現在はマルコ・シモンチェリの名を冠したミサノで開催されたサンマリノ・グランプリへと続きます。

レジアーニがもたらした初勝利

レジアーニがフロントローから好スタートを切り、カダローラがヤマハを捉えた頃には、アプリリアは徐々にリードを広げていました。

後続集団に対するアドバンテージが広がるにつれ、ピットではベッリーニ、B・サボイア、L・ランベリ、ドルフ・ファン・デル・ウード、そして"Ciutur"(ロリス・モンタナーリ)が、笑えばいいのか、泣けばいいのか分からない状態で行方を見守っていました。

「不運以外に、まったく運がない」はロリスの口癖でしたが、その日「不運の女神」は最後までチームの前には現れませんでした。

レジアーニは、ファステスト・ラップを記録したルカ・カダローラに7.9秒差、シト・ポンスに11秒差をつけてゴール・ラインを通過します。

そのとき後方には、サロンやヴィマー、後に世界チャンピオンとなるマングからガリーガまで、ビッグネームが勢揃いしていました。

その時、妻のティナとミサノにいたイヴァノ・ベッジオは、アプリリアが世界チャンピオンに手が届く可能性を確信し、ノアーレに本格的なレース部門を設置することを決めたのです。

これは素晴らしい判断といえました。

5年後には125ccクラスでグラミーニがチャンピオンに、1994年からはマックス・ビアッジと共に250ccクラス制覇が始まるのです。

現在でも、アプリリアのレース部門は世界最高レベルにあります。

たった一度の勝利が、未来を変える大きなポイントとなることがあります。

1987年8月30日、その日はまさに特別な日でした。チーム全員の情熱と献身が、ミサノの舞台に奇跡を起こしたのです。

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